「資格があれば食べていける」と言われた日からの違和感

リハビリ職の本音

「その資格なら、一生食べていけるね」

進路を決めた頃、そう言ってくれた人がいた。親だったかもしれないし、担任だったかもしれない。悪意はなかった。むしろ安心させようとしてくれた言葉だとわかっていた。

それでも返事に詰まった。「ありがとう」と言ったと思うが、その言葉を受け取ったときの感触がどこかすっきりしなかった。なぜそう感じたのか、当時は言葉にできなかった。

考えてみれば、同じ言葉を聞いて素直に嬉しそうにしていた同期もいた。同じ言葉を受け取っても、反応が違う。その違いが何を意味するのか、当時はわからなかった。

あれから数年が経って、実際に現場で働くようになった今、やっとわかってきた。あの違和感が何だったのかを。

「食べていける」は正確だった

PT・OT・STは国家資格だ。資格がなければその業務はできない。病院・老健・通所・訪問と、働ける場所は複数存在し、求人が完全に途絶えることはほぼない。失業率という観点から見れば、多くの業種と比べてかなり安定している。

育休後も職場に戻れる人が多い。引越し先でも同じ職種で働ける。配偶者の転勤に伴って新しい土地に移っても、仕事を探すことはそれほど難しくない。この点では、多くの職業と比べて明らかに恵まれた立場だ。

同世代の友人と話すと、その違いを感じることがある。民間企業に勤める同級生は、リストラの不安や会社の業績に年収が左右される話をする。対して、PT・OT・STが「求人がなくて困った」という話はほとんど聞かない。

その意味では、「食べていける」は正確だった。資格を取ることで、生活を守る最低限のラインが確かに手に入った。

ただし、下限の保証だった

あの言葉が指していたのは「生活できる下限」の保証だった。上限の話ではない。

「一生食べていける」という言葉は、生涯雇用の文脈で語られることが多い。しかし日本の病院や施設の多くは、給与テーブルが固定されている。年功序列で少しずつ上がるが、成果によって急上昇することはない。

多くの医療・介護施設で、給与の伸びは30代前半に止まることが多い。管理職になっても、役職手当が月に数万円増える程度だ。経験年数が15年を超えても、年収が大きくジャンプすることは少ない。求人市場では、経験10年と経験3年の理学療法士の初任給がほぼ変わらない施設も珍しくない。

これは個人の努力の問題ではなく、業界の賃金構造の問題だ。診療報酬という天井があり、1単位あたりの単価が固定されている限り、個人が稼ぎを大きく伸ばすことには構造的な制約がある。

「食べる」ことと「自分が望む働き方で生きる」ことは別の問いだ。資格があれば前者は一定の水準まで守られる。でも後者は、誰も保証しない。それなのに「食べていける」という言葉は、両方の問いに答えているような顔をしていた。

資格を持つことで生まれる引力

資格を持つと、特定の方向に引っ張られる感覚が出てくる。

転職を考えると「せっかくの資格が」と言われる。副業を始めようとすると「本業に集中すべきだ」と言われる。全く別の仕事に関心を持てば「もったいない」と言われる。資格を取ることで選択肢が広がったはずなのに、実際には特定のルートに縛りつける機能を持ち始める。

「この業界を出たら損をする」という空気が、周囲からも自分の内側からも生まれてくる。ローンや家族の生活コストが増えるにつれ、その引力は強くなる。「今さら別の道を探すより、このまま続けたほうがリスクが低い」という計算が、じわじわと選択肢を狭めていく。

あの「食べていける」という言葉の違和感の正体は、ここにあった。

その言葉は、資格を持つことの価値を語っていたのではなかった。資格を持って、そのルートで働き続けることを前提にした言葉だった。資格を取ることと、その資格で同じ場所に居続けることを、一対として語っていた。しかし、本来それは別の話だ。資格はツールであって、働く場所や働き方を固定するものではない。

充実感のなさを「贅沢な悩み」と片づけない

数年働くと、こういう感覚が出てくることがある。

特に悪いことは起きていない。患者との関係は良好で、職場の人間関係もそれほど悪くない。仕事が特別できないわけでもない。でも「充実している」と問われると、即答できない。

この状態を「贅沢だ」「わがままだ」と片づける声がある。しかし、その片づけ方には問題がある。

充実感がないというのは、感情的なノイズではない。自分の状態を示すシグナルだ。「食べていける仕事をしている」という事実と、「これが自分の望む働き方なのか」という感覚のあいだに、すき間がある。そのすき間を「わがまま」と呼んで閉じてしまうと、問いが育たない。問いが育たないまま年数を重ねると、ある時点で突然「自分は何がしたかったのか」という問いが浮かんで、答えられなくなる。

自分のシグナルを適切に受け取れる人は、動くタイミングが早い。「もう少し頑張れば変わる」と先送りを続けた人は、動けるエネルギーが残っていない状態で変化を迫られることになる。「わがまま」と呼んで否定することは、そのシグナルを潰すことだ。

「食べていける以上」を求めることは、異常ではない

働き始めてから数年が経つと、「自分はこのままでいいのか」という問いが出てくる。真面目に現場と向き合ってきた人ほど、この問いが鮮明になる傾向がある。

その問いは、職場への不満とは限らない。環境が良くても、人間関係が悪くなくても、同じ問いが浮かぶことがある。問いが浮かぶこと自体を「この職場が合っていない証拠」と解釈するのは、少し違う。

「食べていける」以上のものを求めているなら、それは欲張りでも迷走でもない。自分の働き方の基準が「生活の下限」より高いところにあるというだけの話だ。

PT・OT・STが持つ観察力、コミュニケーション能力、変化を言語化する力は、医療の外でも通用するスキルだ。それが武器になることを、実際に転職や副業を経験した人は口を揃えて言う。資格の外側に出るとしたら何が武器になるか。今の臨床経験を別の場所で使うとしたらどこか。そういった問いを持ち始めること自体が、キャリアを自分で設計し始めたサインだ。

違和感は、別の基準を持っていることの証拠だ

あの日の違和感を今言語化するなら、こうなる。

「食べていける」という言葉は「安全」を語っていた。でも自分が求めていたのは、安全だけでなく、意味のある仕事だった。

両者は矛盾しない。安全を確保しながら、意味を追うことはできる。ただ、「食べていける」を正解として受け取り続けると、意味を追う問いが浮かびにくくなる。「これで十分なはず」という枠が、問いを少しずつ閉じていく。

違和感は、自分の中に別の基準があることを示している。それは弱さでも迷走でもない。より具体的な自分への問いが始まったというサインだ。たとえ今すぐ動かなくても、問いを持ち続けることに意味がある。問いが育つほど、選択肢が見えやすくなる。

「資格があれば食べていける」は正しかった。でもそれは、出発点の話だった。どこに向かうかは、自分で決める話だ。

モヤモヤを一人で抱えている方は、個別相談を受け付けています。モヤモヤを話してみる →

コメント

タイトルとURLをコピーしました