師長室から出てきた同期の顔が、少し複雑な表情をしていた。「主任、打診された」。廊下でそれを聞いた瞬間、ほっとした自分がいた。そしてすぐに、そのほっとした感覚に対して罪悪感が来た。
管理職になりたくない理学療法士、と検索したことがある人は、この感覚を知っているはずだ。断りたい。でも断っていいのかわからない。断ったら、この職場に居づらくなるのか。そもそも、断ることは「向上心がない」ということなのか。
その問いに、答えを出す前に整理したいことがある。
「主任になりたくない」と感じることは、おかしくない
なぜリハビリ部門では「やらされ管理職」が生まれるのか
リハビリ部門の主任は、多くの場合、「次に年齢が上の人」「大きな問題を起こしていない人」が選ばれる。任命基準が不透明なまま、年功序列と人手不足が重なった結果、本人の意思とは無関係に話が進む。
急性期病院では特にその傾向が強い。スタッフが慢性的に不足している。管理職候補は限られる。「やってもらうしかない」という状況で、打診ではなく実質的な内示に近いケースも珍しくない。
こうして生まれるのが「やらされ管理職」だ。本人が望んでいないのに役職を引き受け、臨床から離れ、スタッフ管理と書類仕事に追われる。問題は人ではなく、そういう構造にある。
「昇進したくない=向上心がない」ではない理由
「主任をやりたくない」と口にすると、決まって返ってくる反応がある。「向上心がないのか」「責任から逃げている」。
これは構図がずれている。
管理職の仕事と臨床家の仕事は、別のスキルセットを要求する別職種に近い。神経系の評価が得意なPTが、スタッフの人事評価やシフト管理に長けているとは限らない。逆も然りだ。向上心の有無ではなく、自分が何に長けていて何に時間を使いたいかという、キャリアの方向性の問題だ。
臨床の深さを極めることに向かう意志は、管理職を目指す意志と同じくらい、正当なキャリア観だ。
管理職になって後悔した人のパターン
主任になった後に「やはり違った」と感じる人には、共通点がある。
臨床に戻れなくなっていた、というケースだ。管理職を経験すると、現場の感覚が鈍る。患者と向き合う時間が減り、症例数が落ち、認定資格の更新条件を満たしにくくなる。数年後に「やっぱり現場に戻りたい」と思っても、スキルのブランクと年齢が壁になる。
もう一つは、主任を引き受けることで「今後もずっとこのポジション」という暗黙の前提が職場に生まれてしまうパターンだ。引き受けた時点で、次のステップは「主任のまま続ける」か「副主任に上がる」かしか見えなくなる。
「主任になる」の中身を分解する——何が変わり、何が失われるか
役職手当の現実——主任で月5,000〜20,000円、残業代はゼロになる
主任になると、月額で5,000〜20,000円の役職手当がつく。一方で、多くの病院では管理職になった時点で残業代が消える。
理学療法士の平均年収は約444万円(厚生労働省 令和6年度調査)。月収換算で37万円前後。主任の残業が月20時間を超えるなら、手当を差し引いても手取りが下がる計算になるケースがある。
「役職手当がつく」という事実は正しい。だが「主任になると収入が増える」は、必ずしも正しくない。残業代が消失する構造を理解した上で判断する必要がある。
管理業務の具体的な中身——シフト、スタッフ評価、報告書、会議
主任になると具体的に何が増えるか。
月次のシフト作成、スタッフの業績評価コメント、院内会議への出席、部署の実績データの集計と報告、新入職員の受け入れ対応。これらが、臨床業務に積み上がる形で発生する。
病院によっては、患者担当数を減らしてもらえる。だが多くの急性期病院では、担当数はほぼ変わらないまま管理業務が追加される。週に何時間が管理に使われるか、事前に確認しておくべき数字だ。
「主任をやってみたら向いていた」人と「向いていなかった」人の違い
主任を経験して「自分に合っていた」と感じる人には、特徴がある。スタッフ個人の変化を観察することに興味がある。部署全体のパフォーマンスを数字で追うことが苦にならない。人の相談に乗ることで消耗するより、むしろ充電される。
一方、「向いていなかった」と感じた人は、患者との直接的な関わりに自分の充実感の大半を置いていた人だ。担当患者の動作が変わる瞬間に意味を感じていた人が、管理業務で同じ感覚を得ることは難しい。
どちらが良いということではない。自分がどちら側にいるかを知っておく、それだけだ。
管理職にならない選択肢は、実際に存在する
スペシャリストとして臨床を深める——認定・専門理学療法士、認定作業療法士
日本理学療法士協会には認定理学療法士・専門理学療法士の制度がある。作業療法士には認定作業療法士がある。これらは、管理職とは別軸で「臨床家としての専門性」を社会的に示す手段だ。
認定理学療法士であれば、脳卒中領域、運動器領域など24分野で取得できる。取得後は施設内での教育・後進育成に関わりながら、臨床を主軸にキャリアを維持できる。
管理職にならずとも、部署の「核」になることはできる。専門性がその根拠になる。
フィールドを変える——訪問リハビリ、フリーランス、産業分野、企業
管理職の打診が来たとき、その職場に留まることが前提になっていないか。
訪問リハビリステーションでは、スタッフが少ない分、組織的なヒエラルキーが薄い。主任・副主任という役職が存在しない事業所も多い。臨床に専念しながら、より高い時給水準で働けるケースがある。
フリーランスという形で複数の事業所と業務委託契約を結ぶPT・OT・STも増えている。産業保健分野では、企業の健康経営を支えるリハビリ職のニーズがある。医療機器・福祉機器メーカー、デジタルヘルス企業も採用を続けている。
「病院の中でどう生きるか」だけが選択肢ではない。フィールドを変えることで、管理職という文脈ごとリセットできる。
今の職場で「昇進しない」ポジションを維持する交渉の考え方
職場を変えずに今の立場を維持したいなら、「断る」という行為を正確に設計する必要がある。
「やりたくないので」という断り方は、上司に解釈の余地を残す。代わりに「認定資格の取得に集中したいため、向こう2年間は現在の担当業務に専念させてほしい」という形で、具体的な期間と目標をセットにして伝える。
管理職を断ることと、職場への貢献を放棄することは、別の話だ。そこを混同させない言葉の組み立てが、交渉の肝になる。
「断る」か「受ける」かの前に、自分に問うべきこと
「なぜ乗り気でないのか」を自分で分解する
「管理職になりたくない」という感覚は、一つの理由からできていないことが多い。
- 患者と向き合う時間を減らしたくない
- スタッフの人間関係に巻き込まれたくない
- 今の自分には管理のスキルがないと思っている
- 収入の増加が見込めない
これらは別々の問題だ。「患者と向き合う時間を減らしたくない」なら、職場との交渉で解決できる可能性がある。「スタッフ関係に巻き込まれたくない」なら、フィールドを変えることで解消するかもしれない。「スキルがない」なら、それは成長の機会として受ける選択もある。
曖昧なまま断るより、理由を自分で言語化する方が次の一手を打ちやすい。
3年後・5年後にどこにいたいか——臨床継続か、領域拡張か
「3年後、自分は何をしている人でいたいか」という問いを置いてみる。
脳卒中リハビリを専門に、臨床家として患者と向き合い続けている——そのイメージが鮮明なら、管理職への道は遠回りになる可能性が高い。逆に、3年後のイメージが曖昧なまま「管理職はやりたくない」と言っているだけなら、その曖昧さが問題の本体かもしれない。
管理職を断る選択も、受ける選択も、3年後のイメージから逆算するのが最も合理的だ。
それでも迷うなら、一人で決めなくていい
「断ったらどうなるか」「受けて後悔しないか」——この問いを、職場の誰かに相談することは難しい。上司には打ち明けにくい。同期も同じ立場にいるとは限らない。
それでも、一人で答えを出そうとしなくていい。同じ状況を経験したPT・OT・STに話すことで、整理されることがある。
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