「うちのカンファ、誰も意見を言わないんです」
リハビリ部門で人をまとめる立場になった方から、この手の話を聞くことがある。聞いていくと、たいてい手はもう打たれている。席の並びを変えた。資料を事前に配るようにした。「どんな意見でもいいから」と毎回言っている。それでも変わらない、と。
こういうとき、次に出てくるのは「もっとコミュニケーションを取ろう」「心理的安全性を高めよう」「1on1を入れよう」あたりになりやすい。どれも間違ってはいない。ただ、それだけでは同じ状態が続くことがある。
最近、宇田川元一さんの『組織が変わる』を読んで、その理由が少し整理できた気がしている。この本で扱われている「対話」は、私がそれまで思っていた対話とはかなり違うものだった。
会話・議論・雑談と「対話」の違い
対話という言葉からは、じっくり話を聞くこと、本音を言い合うこと、わかり合うこと、といったイメージが浮かぶ。
宇田川さんの本での対話は、そこではない。今見えている問題の枠組みから一度外に出て、問題の捉え方そのものを変えていく取り組みを対話と呼んでいる。人と人がじっくり話し合うことを必ずしも意味しない、とまで書かれている。
並べてみると違いがはっきりする。
議論は、決めるための話し合いだ。結論を出すことが目的で、意見の根拠を問い合う。雑談は、決めない話し合いだ。目的を置かずに話題を広げていく。本音を言い合うことは、方法ではなく状態に近い。言える関係があれば結果としてそうなる。
そして対話は、問題の見方を変えるための話し合いになる。
この区別は実務で効く。「今日のこの30分は、決める場なのか、眺める場なのか」。ここが曖昧なまま人が集まると、誰かが結論を出そうとし、誰かが話を広げようとして、噛み合わないまま終わる。意見が出ないカンファの一部は、たぶんこの取り違えでも起きている。
「誰かの問題」にした瞬間に消える打ち手
組織の困りごとは、たいてい誰かの問題として語られる。
「若手が主体的じゃない」「主任が育たない」「看護とうまく話が通じない」。こう捉えた時点で、変える対象は常に相手になる。自分は問題の外側に立っている。
外側に立っている限り、できることは相手を変えることだけだ。もう一度説明する。指導の機会を増やす。評価に反映する。研修に出す。それでも変わらないと、最後は「本人の意識の問題」というところに落ちる。落ちた先に打ち手はない。
ここで一度、別の角度を入れてみる。「自分の言動も、この状態が生まれている仕組みの一部ではないか」。
ただしこれは、自責で考えようという話ではない。宇田川さんも、自責と他責の枠組みとは違うとはっきり書いている。責任の所在を決める話ではなく、自分の側に動かせる場所があるかを探す話だ。誰かのせいにしている限り、その場所は見つからない。
「自分も問題の一部」の本当の意味
具体的に考えてみる。
カンファで意見が出ない。主任は「もっと自分で考えてほしい」と繰り返し伝えている。ここで主任自身の行動を並べてみると、こんなものが出てくることがある。
若手が答えに詰まると、先に自分が答えを言ってしまう。提案が出ると「それは前に試したけど難しかった」と返す。議論はするが、方針は最終的に自分が決める。忙しい日は「今日は時間がないので私が決めます」で進める。
どれも悪意はない。親切だったり、その日の業務を回すための判断だったりする。
一方、若手の側から同じ場面を見ると、風景が変わる。意見を言っても最後は主任が決める。考えて持っていっても使われない。黙っていたほうが早く終わる。
大事なのは、ここで「主任が悪い」と結論づけないことだ。主任の行動、若手がこれまで積んだ経験、人員の余裕のなさ、単位数のプレッシャー、その部署のこれまでの歴史。それらが組み合わさって、今の状態ができあがっている。
宇田川さんは、自分も問題の一部だと気づくことを、自分が悪いと気づくことではなく、自分なりに手を打てる場所が見つかることだと説明している。
実際この主任には、少なくとも一つ動かせる場所がある。若手が詰まったときに、先に答えを言わない。たったそれだけでも、循環は少し変わりはじめる。
解決策を先に出すと見えなくなるもの
問題が起きると、すぐに打ち手を考えたくなる。カンファの進め方を変える。記録の様式を変える。勉強会を増やす。面談の頻度を上げる。
宇田川さんは、解決策を口にすることは「その問題はもうわかっている」と宣言することだと書いている。わかっていると宣言した時点で、それ以上、何が起きているのかを考えなくなる。
問題の捉え方がずれていれば、打ち手として正しくても効かない。そして厄介なのは、効かなかった経験が積み上がることだ。「前にやったけど変わらなかった」という記憶は、次に何かを始めようとするときの抵抗になる。手を打つたびに、動かしにくくなっていく。
順番としては、解決策を考える前に、起きていることを眺める。急がば回れという話ではなく、眺めないと打ち手が選べないという話だ。
問題を捉え直す5つの問い
では何をどう眺めるのか。原著の考え方を借りながら、実務で使える形に整理すると、次の5つになる。
1. 具体的に、何に困っているのか
「風土が悪い」「コミュニケーション不足」では動けない。宇田川さんは、人は抽象的な問題に困っているのではなく、困っていることがはっきりしないから風土の問題だと表現してしまう、と指摘している。困りごとは必ず具体的な場面を持っている。そこまで降ろす。
2. その問題は、どんな場面で起きているのか
すべての場面で起きているわけではない。起きる場面と起きない場面を分けると、条件が見えてくる。同じ人でも、朝のミーティングでは話すのに、カンファでは黙るということが普通にある。
3. いつ頃から、どんなきっかけで起きるようになったのか
ここで「なぜ」と問わないのがポイントになる。宇田川さんは、「なぜ」を問うのを一度やめることを勧めている。なぜと問うと、今すでに持っている解釈を補強する答えしか返ってこないからだ。「なぜ若手は主体的でないのか」と問えば「経験が浅いから」で終わる。いつ頃から、どんなときに、と問うと、具体的な出来事が出てくる。
4. 自分はそのとき、どんな行動をしているのか
自分と問題の接点を探す問い。悪いところ探しではなく、接点探しとして扱う。
5. この問題をもっと悪化させるとしたら、何をすればいいか
原著で「反転の問いかけ」と呼ばれているものだ。「カンファでもっと意見が出ないようにするには、何をすればいいか」と考えてみる。これが不思議とすらすら出てくる。発言を遮る、正解を先に言う、言った人に仕事を増やす、など。そして出てきたもののいくつかは、自分がすでにやっていることだったりする。問題がどう生まれているのかが、ここで見えてくる。
困っている本人と、一緒に眺める相手
実務でつまずきやすい点が二つある。
一つ目は、困っているのは誰か、という点だ。
「若手が育たなくて困っている」という場合、困っているのは主任であって、若手ではない。ここを取り違えて「あなたの課題について話そう」と若手を主役にすると、その場は指導になる。対話にはならない。宇田川さんも、当事者役は困っている本人が担うべきだとはっきり書いている。主任自身が「若手が育たなくて困っている」と、自分の困りごととして口火を切る。順番はここからになる。
二つ目は、一人で眺めない、という点だ。
自分と問題の関わりを一人で掘っていくと、かなりの確率で自己嫌悪に向かう。宇田川さんもそのリスクに触れている。他者の視点が入って初めて、同じ出来事が立体的に見えてくる。
では誰を呼ぶか。原著では、問題に関わっている人を一人、まったく関わっていない人を一人、という組み合わせが示されている。リハ部門の話なら、同じ部署の別職種と、他部署の主任、くらいの距離感になる。関わっていない人が入ると「そもそも、なんでそれを主任が決めているんですか」といった問いが出てくる。内側にいる人からは、まず出てこない問いだ。
「対話しましょう」から始めない理由
ここまで読むと「では対話の場をつくろう」となりそうだが、ここが一番つまずく。
宇田川さんは、対話が大事だと言っている人が、相手の拒否反応の理由に向き合えていないことがある、と書いている。対話という価値観を相手に押しつけている時点で、やっていることは対話と逆になる。
「来月からコミュニケーション研修をやります」と言われたときの空気を思い出すとわかりやすい。忙しい中でその時間を取る理由が、本人の側にないからだ。意見を言わない人には、言わないなりの経緯がある。過去に言って流された。言っても変わらないと思っている。そもそも何に困っているのか、自分でもまだ言葉になっていない。そこを飛ばして「もっと話してほしい」と求めれば、拒まれて当然という気がする。
始め方は、対話ではなく、具体的な困りごとになる。
「最近カンファがどうも噛み合わない気がしていて、一回ちゃんと考えたいから30分もらえないか」
このくらいの入り方なら乗りやすい。対話は目的ではなく、問題を捉え直すための手段でしかない。
対話を万能薬にしないという前提
最後に、ここは正直に書いておきたい。対話だけで組織が変わるわけではない。
人員配置、単位数の目標、記録システム、勤務シフト。構造そのものを変えないと解けない問題は確実にある。そこを対話でどうにかしようとすると、今度は「話し合ったのに何も変わらない」という別の徒労が積み上がる。
ただ、何を変えるべきかを決める前に、何が起きているのかを捉え直す。この順番が逆になると、正しい打ち手でも空振りする。そのために対話が使える、という整理が今の私にはしっくりきている。
宇田川さんはこの本で、組織の行き詰まった状態を「慢性疾患」と呼んでいる。根治を目指すのではなく、寛解を目指す類のものだという捉え方だ。リハビリに関わってきた人なら、この感覚は説明されなくても通じるはずだ。完治しない前提で、悪化させない関わりを続けていく。組織もそれと同じで、一度の施策で治すものではなく、小さな問題が出てくるたびに向き合い方を調整していくものなのだと思う。
そう考えると、問題が出てくること自体は悪いことではなくなる。何が起きているのかを教えてくれる合図として扱える。
もしこの記事を読んで「うちでも対話をやってみよう」と思ったなら、その前に一度だけ、自分が今いちばん困っていることを書き出してみてほしい。抽象的な言葉ではなく、具体的な場面まで降ろした形で。たぶん、そこが入口になる。